「少年よ大志を抱け」 クラーク博士の思い

先日の「何者にもなれなかった」という知人の言葉から、クラーク博士の「少年よ、大志を抱け」を思い出した。
この言葉に博士がどんな思いを込めたのか考えてみた。

クラーク博士は、1926年、米国マサチューセッツ州で生まれた。
神学校、アマースト大学で教育を受けた後、ドイツに留学し化学の博士号を取得。
20代でアマースト大学初の博士号を持つ教授に就任。

ドイツで農業教育の必要性を感じた博士は、大学に農学部を設立するがうまくいかない。
新しい教育には新しい大学が必要であると考え、マサチューセッツ農科大学の設立に漕ぎつける。
1871年、その学長に就任し農学の発展に尽力する。

1876年、明治政府の熱心な要請を受けて来日。
新設した札幌農学校の教頭に就任。
(政府に紹介したのは博士の授業を受けた新島襄氏(同志社大学創設者)

わずか8か月の滞在であったが、高等教育の仕組みを構築するとともに、その後の日本を背負って立つ人材の育成に貢献した。
演武場(のちの時計台)の建設を指示したのも博士だった。
帰国する際、学校から馬で30㎞も博士を追いかけてきた教え子に、博士が馬上から投げかけた言葉が「少年よ、大志を抱け」だった。


ここからは私の推測が入るが、
このように平たく書くと、普通の学者タイプと思われるだろうが、博士は幼少の頃から負けん気が強く、喧嘩やスポーツも強かったという。

ドイツで農業教育の必要性を痛感してからは、農業教育や人材育成が博士の「大志」だったと言えよう。
新しい大学の設立は、自ら州議会議員になって働きかけた。

日本から、農学校の設立に力を貸してほしいと頼まれたときも、自分と同じ大志を抱く明治政府に共感して引き受けたのかもしれない。
わざわざ大学の長期休暇を取ってまで。

ただ、自身の「大志」は道半ばにして来てしまった。
帰国する際、学生には教えたいことがまだ山ほどある。
しかし、自分にも母国でやり残したことがある。
しかも学生と違い、50歳の自分は既に老人の域(当時の平均寿命は50歳未満)。
そんな自分が老骨に鞭打って頑張るんだから、君たちも頑張ってほしい。

そのような気持ちを込めて、帰り道、馬を停めて言ったのだろう。
Boys, be ambitious like this old man.
(と記憶している人もいたし、諸説ある)
Boys と old が対になっているのだろう。

この言葉は、急ぐ博士が「さようなら」の代わりに言った言葉としてはやや長く、美文だから、後世の人が作ったと疑う人もいる。
また、この old man は博士ではないという説もある。
しかし、博士自身を勇気づける意味を込めていると考えたい。

私はこの like this old man が付いている言葉のほうが好きだ。
ということで今回紹介させていただいた。

なお、博士は帰国後、大学学長を辞任、洋上大学の創設を構想するが資金難で頓挫。
また鉱山会社を設立するも、1年半で倒産、裁判を起こされる。
それもあって心臓病を発病し、1886年に59歳で亡くなった。
結果は出なかったが、亡くなるまで野心的に動き回った。

帰国後も札幌での生活を忘れず、死の間際には、
「札幌で過ごした時期こそ、人生で最も輝かしいときだった」
と言い残したらしい。